「絶対にあきらめるな」は時代遅れか?2026年の日本で突如バズり直す“あの熱血フレーズ”の正体
できる できる 君 なら できる——。耳の奥底にこびりついて離れないあの甲高い激励の声が、2026年の春、再び日本列島を奇妙な熱気で包み込んでいる。かつてテレビ画面の向こうから日本中を鼓舞した松岡修造氏のアイコニックな咆哮。あれから年月が経ち、あらゆるタスクが自律型AIに最適化された今、この泥臭いフレーズがTikTokやショート動画の枠を飛び越え、深夜のコワーキングスペースや学生街のカフェで合言葉のように囁かれているのだ。
冷徹なデータ分析と予測モデルが日常を埋め尽くす中、深夜に画面と対峙するプログラマーがふと口ずさむできる できる 君 なら できるという無骨なフレーズは、もはや単なる過去のネットミームではない。完璧な正解ばかりを提示してくるスマートグラスの通知を遮断し、あえてこの非合理な熱量にすがる人々がいる。効率を極めた果てに私たちが直面しているのは、冷え切った自意識を揺さぶる「生の体温」への飢えだ。
なぜ今、2000年代の「泥臭い熱狂」に日本中が群がるのか
街を歩けば、洗練された静寂が支配している。街頭ビジョンは個人の網膜に合わせてパーソナライズされた広告を無音で映し出し、人間関係の摩擦すらアルゴリズムが事前に回避してくれる時代だ。だが、その滑らかすぎる日常が、ある種の息苦しさを生んでいることは否定できない。
「失敗しないルート」があらかじめ敷かれているからこそ、転ぶことの恐怖がかつてないほど肥大化した。そんな閉塞感に風穴を開けたのが、あの圧倒的なまでの直球勝負だ。理屈じゃない。ロジックでもない。ただ目の前の対象を100%信じ切る狂気じみたエネルギー。その無防備な愚直さが、防音壁に囲まれた現代人の鼓膜を激しく震わせている。
アルゴリズムに疲弊したZ世代・α世代が求める「根拠なき肯定」
興味深いのは、このフレーズを最も熱心にリピートしているのが、リアルタイムで当時のブームを知らない2000年代後半以降生まれの若者たちだという点だ。彼らにとって、これまでの人生は常に「評価の連続」だった。SNSのエンゲージメント、ポートフォリオスコア、AIによるキャリア適性診断——。
「あなたの適性確率は34%です」と冷淡に告げる画面を前に、人はどうやって立ち上がればいいのか。答えは極めて原始的な場所にあった。「根拠なんかいらないから、ただ『お前ならやれる』と言ってくれ」。そんな切実な渇望が、短尺動画のBGMとして再生回数数億回を叩き出す現象の裏側に潜んでいる。条件付きの承認に疲れ果てた魂が、無条件の絶叫に救いを求めている構図だ。
ビジネス現場のパラダイムシフト:「冷徹なKPI」から「熱量の再評価」へ
この波は、大手IT企業やスタートアップの現場にも確実に波及している。都内のある生成AIスタートアップでは、朝のスタンドアップミーティングの締めにこの言葉を取り入れたという。一見すると昭和的な精神論への先祖返りにも思えるが、仕掛けた創業者の意図は真逆だ。
「コードを書くのも市場分析をするのもAIのほうが圧倒的に速い。でも、『誰も見たことがないプロダクトを世に出す』という恐怖に耐える力だけは、計算機からは生まれません。最後に背中を押すのは、不条理なまでの自己暗示なんです」。
合理性を突き詰めた組織ほど、最終的なブレイクスルーの源泉を「人間の感情の爆発」に求めている。冷徹なモニタリングツールで管理された現場で、最後に残された勝負手は、個々人が抱く根拠なき確信なのだ。
脳科学とスポーツ心理学が解き明かす「自己暗示の突破力」
心理学や神経科学の観点からも、この言葉の持つ作用が改めて検証されている。単調な繰り返し言葉、とりわけリズミカルな肯定表現は、前頭葉の過剰な自己批判ネットワーク——いわゆる「デフォルト・モード・ネットワーク」の過活動を抑制することが分かってきた。
「考えすぎる脳」は、リスクを回避するために無数の言い訳を作り出す。あきらめる理由を1秒間に何十個もシミュレーションしてしまうのが人間の脳の防衛本能だ。そこに「できる」という確定された述語を連続で叩き込む。脳の防壁を力づくで突破し、扁桃体の不安シグナルをかき消す一種の認知的オーバーライド。あの叫びは、極めて実戦的なメンタルハックとして機能している。
「頑張れ」の呪縛をどう乗り越えるか——新時代のポジティビティの作法
もちろん、手放しの礼賛ばかりではない。「前向きさの押し売り」が時に人を追い詰める毒になることは、この十数年のメンタルヘルスを巡る議論で痛いほど学んできたはずだ。うつ病やバーンアウトに苦しむ人に向けてこの言葉を浴びせるのは、ただの暴力になりかねない。
今求められているのは、他者を従わせるための号令ではなく、自分自身の手綱を握り直すための「個人的な呪文」としての受容だ。誰かに強要される「頑張れ」ではなく、自分の内なる炎を再点火するために自発的に選ぶ言葉。その文脈の使い分けを、現代のユーザーたちは極めて慎重に、かつクレバーに行っている。
2026年、私たちは再び「声」を取り戻す
滑らかで、清潔で、失敗のないスマートな未来。私たちが手に入れたその世界は確かに快適だが、どこか薄味で、体温が足りない。だからこそ、画面を叩き割らんばかりの勢いで叫ばれたあの言葉が、今ふたたび生々しいリアリティを持って胸に突き刺さる。
立ち止まりそうなとき、足がすくむとき、自分を信じる根拠が世界のどこを探しても見当たらないとき。最後の最後に残るのは、自分自身に向けて投げかける、あのシンプルで無骨な叫び声だけなのかもしれない。世界がどれほど賢くなろうとも、人間が自らの足で一歩を踏み出す瞬間の熱狂だけは、決してアルゴリズムには代替できないのだから。 (出典: できる できる 君 なら できる(Yahoo!ニュース))