「産むために仕事を諦めるな」2026年、不妊治療で休職した私たちが突き当たる「傷病手当金」の厚き壁
不妊 治療 休職 傷病 手当 金という文字を、都内のIT企業でマネージャー職を務めるサキさん(35・仮名)がスマートフォンの検索窓に打ち込んだのは、4度目の採卵を終えた直後、重度の卵巣過剰刺激症候群(OHSS)で激痛にのたうち回っていた未明のことだった。ベッドから一歩も動けない。腹水が溜まり、息をするだけで肋骨がきしむ。「明日のプレゼンはどうする?」「今期の評価は?」。激痛の合間に押し寄せるのは、身体の不安ではなく仕事への焦燥感だった。すでに有給休暇はすべて通院と検査で使い果たしている。選べる道は、無給での休職か、キャリアの完全な停止――すなわち退職しかなかった。
保険適用が2022年にスタートしてから早4年、2026年の日本において不妊治療は「隠れて行う特殊な医療」から「働く世代が直面するごく身近なライフイベント」へと看板を掛け替えた。だが、実態が追いついているとは到底言えない。心身が限界を迎え、ドクターストップがかかった際に生活を支えるはずの不妊 治療 休職 傷病 手当 金をめぐっては、各健康保険組合の判断の揺らぎや、診断書の文言ひとつで給付を跳ね返される現場の混乱が今なお深刻化している。制度の網の目から滑り落ち、経済的孤立へ追い込まれる女性たちの声に耳を傾けた。
「病気ではない」と突っぱねられる不条理——保険者ごとの巨大な温度差
傷病手当金は、本来、業務外の病気やケガで連続して3日以上仕事を休み、給与が支払われない場合に支給される公的給付だ。支給額は標準報酬日額の約3分の2。最長で1年6カ月間受給できる。生活防衛のための最後の砦である。
しかし、不妊治療がこの枠組みに素直に収まるかといえば、話はそう簡単ではない。「健康保険法上の『療養のため労務に服することができない』状態に該当するかどうか、その線引きが各健康保険組合の裁量に委ねられすぎている」。社会保険労務士の松山氏は憤りを隠さない。
全国一律の基準で比較的柔軟に対応する「全国健康保険協会(協会けんぽ)」に対し、大手企業が独自に運営する単一の健康保険組合では対応が真っ二つに割れる。あるメガバンクの健保組合では、医師が「過度のホルモン投与による重篤な倦怠感および就労不能」と診断書に明記しても、「不妊症そのものは生命に関わる器質的疾患ではない」と機械的に申請書類を差し戻した事例が2025年末に報告されている。
治療費として毎月10万〜20万円が消えていくさなかに、給料が途絶え、傷病手当金すら拒絶される。これが、少子化対策を国家戦略と位置づける国の足元で起きている生々しい現実だ。
重度OHSSから適応障害まで:給付が認められる「医学的境界線」
では、現場において受給が勝ち取れるケースと、冷たく門前払いされるケースの境界線はどこにあるのか。複数の産婦人科医や産業医の証言から浮かび上がってきたのは、診断名にまつわる厳格な「コード」だ。
単に「不妊治療のための体調不良」や「通院療養」という記載では、まず審査を通らない。受給が認められる典型例は大きく2つに分かれる。
1つ目は、明白な身体的合併症が生じている場合だ。採卵誘発剤の過剰反応によって卵巣が腫れ上がる卵巣過剰刺激症候群(OHSS)、採卵針による骨盤内感染、あるいは子宮外妊娠や稽留流産に伴う手術とその予後不良などがこれに当たる。これらは急性期の「身体疾患」として扱われるため、医師の就労不能意見書が通りやすい。
2つ目は、精神医学的なアプローチだ。度重なる治療の失敗、過密な通院と仕事の両立ストレス、ホルモン剤の乱高下が引き金となり、心療内科で「適応障害」や「うつ状態」の確定診断が下るケースである。近年の労働現場では、不妊治療に伴うメンタルヘルスの悪化によって休職し、傷病手当金を受給するパターンが急増している。
「精神科に行くこと自体に抵抗を感じる患者さんはまだ多い。しかし、ホルモン療法の副作用は脳内伝達物質に直接作用します。心が弱いからではなく、薬理作用として鬱状態に陥るのです。限界を感じたら躊躇なく専門医を頼ってほしい」。都内の生殖医療専門クリニックでカウンセリングを担当する医師はこう警鐘を鳴らす。
「退職」ではなく「休職」を選ぶ勇気——キャリアと給与の防衛戦
厚生労働省の追跡調査によれば、不妊治療と仕事の両立が困難になり、最終的に離職を選んだ経験を持つ労働者は依然として全体の約16%前後に上る。一度キャリアのレールを降りてしまえば、同条件での再就職は極めて困難だ。特に30代後半から40代前半という治療のボリュームゾーンは、組織において中核を担う重要な時期と完全に重なり合う。
退職は最悪の選択肢になりかねない。退職してしまえば、被保険者資格の喪失により、その後の生活設計は一気に暗転する(一定の条件を満たせば退職後も傷病手当金の継続給付は可能だが、申請の難易度は跳ね上がる)。
これに対し、会社に在籍したまま「休職」を選択し、傷病手当金で固定費をまかないながら治療に専念するルートは、生活と雇用の両方を維持する現実的な防御策となる。社会保険料の免除制度や、休職期間中の住民税の減免措置など、会社員としての身分が担保されているからこそ活用できるセーフティネットの恩恵は計り知れない。
2026年の現場レポート:人事担当者が明かす「言えない本音」
一方で、受け入れ側の企業側にも構造的な疲弊が広がっている。都内の中堅広告代理店で人事労務を担当する高橋氏(仮名)は、複雑な胸中を打ち明けた。
「少子化対策や女性活躍推進の看板を掲げ、不妊治療休暇制度も導入しました。しかし、年5日程度の特別休暇では到底足りない。結局、長期の休職に入られると、現場のチームにしわ寄せがいきます。傷病手当金の手続き自体は会社の持ち出しではありませんが、代替要員の確保にかかるコストは莫大です。現場からは『いつ戻ってくるのか』『不公平だ』という不満が噴き出し、板挟みになります」
「私傷病休職」の枠組みをどこまで適用すべきか。就業規則の改定が追いついていない中小企業では、経営陣の個人的な価値観によって「不妊治療は自己都合の私事だから休職を認めない」という違法まがいの内規がまかり通る例も後を絶たない。
企業の善意や個別の配慮だけに頼るシステムは、すでに限界を迎えている。
給付申請で絶対に踏んではいけない3つの落とし穴
制度を利用しようとする際、些細な知識不足が致命的な不支給を招くことがある。取材によって明らかになった、申請者が陥りがちな「3つの落とし穴」を整理した。
第1の罠は「待期期間」のカウントミスだ。傷病手当金を受給するには、労務不能となった日から連続して3日間の「待期」が必要となる。4日目からが支給対象だ。この3日間に半日でも出社して業務を行ったり、有給休暇の処理を誤ったりすると、待期の完成がリセットされ、給付開始日が大幅に遅れてしまう。
第2の罠は、主治医とのコミュニケーション不足に起因する診断書の不備だ。医師に対して「会社を休みたい」とだけ伝えると、傷病手当金の申請書にある「労務不能であったと認められる期間」を短く切られたり、単なる経過観察と書かれたりする。自分が職場でどのような業務を行っており、その身体症状(または精神症状)によって業務遂行が具体的にどう不可能なのかをカルテに克明に残してもらう必要がある。
第3の罠は、休職期間中の「完全な労務不能」要件の逸脱だ。在宅勤務の普及に伴い、「少し体調が良いから」と自宅でメール返信や軽微な事務作業を有償・無償問わず引き受けてしまうケースがある。健保組合の調査でこれらが発覚した場合、「労務可能」とみなされて全期間の支給が取り消され、返還を求められるリスクすらある。
少子化対策の看板倒れを防ぐために:求められる抜本的な制度アップデート
日本の出生数が年間70万人を割り込むなか、子どもを持ちたいと願い、高額な医療費を投じ、身体を削って治療に挑む人々が、なぜここまで制度の不備に怯えなければならないのか。
現在の傷病手当金制度は、大正時代に制定された健康保険法をベースにしており、結核などの長期感染症や突発的な事故をモデルに設計されている。生殖医療のように、周期ごとに体調が激変し、予見性が低く、メンタルヘルスと身体症状が複雑に絡み合う現代的な医療を包摂しきれていないのは自明だ。
一部の野党議員や労働団体からは、不妊治療に伴う体調不良に特化した「不妊治療休業手当」の創設や、傷病手当金の支給要件の弾力化を求める声が上がり始めている。だが、法改正の議論は遅々として進まない。
「産むか、働くか」。そんな二者択一を個人に突きつける社会に、持続可能な未来などあるはずがない。制度を正しく知り、権利として活用すること。そして同時に、時代遅れのセーフティネットの抜本的な再構築を社会全体で求めていくこと――。2026年、私たちはその岐路に立たされている。 (出典: 不妊 治療 休職 傷病 手当 金(Yahoo!ニュース))